相容れないものを感じつつも、いやだからこそ語らずにはいられない

ほぼ私信です。
どっちが正しいとか間違っているとかそういうことはあまり気にしてません。筋論からすればこっちはかなり酷いこといってます。

sukezaさんは「天皇制の批判は決してタブーではないと思います」「廃止を含めた議論や批判もある程度行われています」とおっしゃいましたが、本当にそうでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20090415/1239784148

「(天皇に)お疲れ様でしたーっつてさ、普通の人に戻ってもらおうよ」
というのはTVでの田嶋陽子氏の発言だったと記憶しています。細かい表現は間違っているとおもいますが。
少なくともこの程度のことならTVで発言できる世の中です。昔よりはだいぶマシでしょう。
また、僕は島田雅彦の作品が好きですが、彼の「無限カノン」の刊行が遅れたことも知っています。

sukezaさんが「望ましい皇族」と言う時、その先にいるはずの個人は、たとえば明仁さん個人は、けっして見えてはきません。なぜなら、彼は制度を逸脱して振る舞うことが許されてはいないからです。そこに見えてくるのは個人ではなく、あくまでも制度と社会の願望の投影によってつくりだされた、フィクショナルな存在なのです。天皇という物語です。

http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20090415/1239784148

天皇制の欺瞞性は各方面で指摘されている通りです。皇族は奴隷のようなものではなく、奴隷そのものであるといってもいいでしょう。奉仕の対象は曖昧模糊たる「国民の総意」辺りでしょうか。
僕が使っている「望ましい皇族」という表現にも欺瞞があります。正直に書くのなら「都合がいい皇族」です。
表現の自由も居住の自由も職業選択の自由もなにもない。それでもなお日本の象徴としての役割を過不足無く果たしてくれるそんな存在。
そこにいるのがアキヒトさんだろうがナルヒトさんだろうが関係ない。必要なのは完璧なあるいはそれに近い「天皇」や「東宮」です。

「望ましい皇族」は完全にフィクショナルな存在です。少なくとも僕にとってはそれは言われるまでも無い。
でも、たとえフィクションであっても天皇は現実に存在するわけですし、その役目を十分に果たしている天皇陛下には感謝と尊敬を感じます。それは華麗なプレーをするスポーツ選手や、素晴らしい作品を残した芸術家や、大きな業績を残した科学者に対する尊敬と質的には変わりありません。
違いは、大変な責任を押し付けた後ろめたさの存在ですね。

人間をそんなものとして扱う制度、社会なんて、くっだらねぇ、吐き気がするぜ、って思いませんか。そんなもの、ぶっつぶしてしまった方がいいと思いませんか。

http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20090415/1239784148

くだらない、吐き気がする。その気持ちは分りますが、それでも天皇制は維持すべきです。
僕はそれをわがままと知りつつ主張しています。以上、右からも左からも刺されそうなお話でした。