崩壊「した」のか崩壊「させた」のかって大事な視点だと思うんよね。

id:alshine5さんにIDコールされたんで応えてみるよ。

本数が多いのならば新作チェックの時にこれは自分的にイケル!と思ったものだけ見ていればいいんではないかなと思うんですがどうでしょう?

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20090301/p1

全くおっしゃるとおり。沢山見る必要なんて無いんですよ。
自分の話をすれば、そのクールで観てる作品は多くても4本くらいです。一応録画してあっても結局観ずに消すものが大半かな。
オタクの気質として「放送されているのは全部見たい」というのも解らないではないですが。まあでも本数半分にして、倍集中して観た方が楽しいのではないかなと思うんですがどうでしょう?。

僕がブコメで書いた

目に見えるものしか観ていないのかなと感じることはある。

って言うのは、id:izuminoさんいうところの

まず演出家が「その作画を通した」なら、あとは全て演出家と監督の責任問題になるはずで、その「通した」際の演出が「作品的に活きるものだったか」という是非がまず問われるべきでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20090302/p1

ってのと同じなのかもしれません。
僕はアニメの作画に対してはひどく寛容なところがあって、どんなにデッサンが崩れていようとオリジナルのキャラデザとかけ離れていようと、それ自体に文句をつけることはありません。・・・演出の支配下にあると判断できる限りは。
僕にとってアニメーションの作画は演出に従属する要素でしかありません。
なので、所謂崩壊した作画を目にしたときは「今の作画は演出としてそのようなものが配されたのだ」と考えるのが自然な成り行きです。で、どう考えても演出の意図から離れて作画だけが勝手に「崩れた」のであればそれは非難の対象ですし、演出が「崩れさせた」ものであれば別の評価軸に乗る話になります。当然、演出のピークではないところに作画のピークが来てしまっても、崩壊してしまった作画といえるでしょうね。
こういう話では「創聖のアクエリオン」の19話、所謂うつのみや理回のことが思い起こされます。あの時レゴ職人河森正治が観て欲しかったものは確かに画面の中にあったにも拘らず、多くの人が「画が違う」と騒いだことは今でも印象深いです。
同じうつのみや作画でも「交響詩篇エウレカセブン」の三期OPは、あまり評価してません。OPはオリジナルのキャラデザに忠実であるべきと思うからです。
大切なのは、それが勝手に崩壊「した」作画なのか演出が崩壊「させた」作画なのかってところ。
演出の存在を忘れて(気づかず?)、ただ画面に映った画像だけ見て鼻息荒くしてるのはツマンナイですよ、とおっさんは遠くで呟くのです。