“涼宮ハルヒの憂鬱”を見終わって

狭い界隈で一大ブームを巻き起こしたTVアニメ版“涼宮ハルヒの憂鬱”を全話見終えた。この大変よくできた“並”のお話が、ここまでのブームを引き起こしているのが、今でも不思議で仕方ない。
一言でいってしまうと、僕はこのお話をあまり面白いと思っていないのだ。

このアニメをつまらなくした理由の一つが、話数シャッフルだ。
最終回を見終えた今なら、スタッフがなぜそんなことをしたのかよくわかる。確かに最終回として相応しい話はこれ*1しかない。これをシリーズ中盤で流してしまったら、そのあとはどれで締めても物足りなさが残りそうだ。強いてあげるなら文化祭のところくらいか。
構成上の苦肉の策であっても、それによって作品がより面白くなるなら問題はない。でも僕にとってはそうならなかった。

涼宮ハルヒの憂鬱”の骨格は、「世界に倦んだ普通の女の子が世界とのつながりを取り戻す話」だ。世界は社会でもいい。
実にシンプルで、10代向けの定番ストーリーともいえるものだ。
他作品との差異は、関連性再生の過程をどれだけ魅力的にできるかで決まる。そう、肝心なのは過程だ。

ところがこのアニメは、時系列がシャッフルされることによって、キャラクターの成長や関係の変化がわかりにくくなっている。あれがあって、ああなって、これがあって、こうなって、今はこう。これが見えにくい構造なのだ。物語の魅力の根幹に関わるところがはっきりしない作品を面白くないと感じたからといって、一体誰が僕を責められようか。
もうひとつ。「見て欲しいところはわかりやすく、見て欲しくないところはわかりにくく」が演出の基本だ。この理屈で行くと、このアニメはハルヒの成長に主題を置いていないことになる。ならば何を見たらいい?こうして僕は物語を見失ったのだ。

これ以外にも些か腑に落ちないところもあるのだが、以上のことが“涼宮ハルヒの憂鬱”を大変よくできた“並”のお話と感じる原因の大半だ。八割くらいはこれで説明できる。
なんていうか、物語としての普遍的な魅力がちょっと足りなかったから、京アニのブランド力もあってか至るところで「神アニメ」といわれていたけれど、来年の今ごろには殆ど思い出されることも無くなっちゃってるじゃないかって気がするのです。